🧠 なぜ人は死ぬのか
― 生物学者ラマクリシュナンが突きつけた「死」の再定義
「死とは、個体が全体として機能する能力を不可逆的に失った状態である」──そう語るのは、ノーベル化学賞受賞者であり、構造生物学の第一人者ヴェンカトラマン・ラマクリシュナンである。
彼は、イタリアで開催された「ミラノ長寿サミット」に登壇し、死を“生物的な必然”とみなす世間の常識に一石を投じた。人間は死ぬようにプログラムされているわけではない。進化は、個体の寿命に関心を持たない。ただ“遺伝子の伝播”だけを選んでいる。
これは、生存そのものよりも「再生産」の成功が重視される進化論的事実を裏付けるものだ。
生殖優先の進化論が、老化の鍵を握っていた
ラマクリシュナンは、死を「個体が機能を取り戻せない状態」と定義し、死そのものは生物的にプログラムされたものではなく、再生産を最優先する進化の結果に過ぎないと断じる。
進化は、我々がどれだけ長く生きるかに関心を持たない。「長く生きる」よりも「早く繁殖し、遺伝子を残す」ことこそが、生物が選択してきた戦略なのだ。これは日本の美容医療業界が抱く「老化=劣化」という観念にも一石を投じる。

🔬 老化の正体は“細胞の摩耗”ではなかった
― 寿命を決めるのは、生き残りのための資源配分の戦略
ラマクリシュナンによれば、老化とは単に細胞が使い古されていくことではない。むしろ、生殖や成長に集中した資源配分が、長期的には修復能力を蝕むことによる自然な代償なのだ。
この考えは、老化を「不幸な副産物」ではなく、「進化的戦略の結果」として捉えるパラダイムシフトをもたらす。
また、寿命が種ごとに異なる理由もここにある。イモムシからマウス、ヒトに至るまで、生物ごとに“いつまで修復を続けるか”の設定が異なるというだけなのだ。

老化とは「修復の打ち切り」である
ラマクリシュナンの考えでは、老化とは細胞の劣化ではなく、リソース配分における戦略的撤退である。生物は生殖を終えた段階で、修復の優先順位を下げる。この「修復の打ち切り」が、身体機能の低下、すなわち老化として現れる。
たとえば人間が70歳以降も生きるのは“奇跡”ではなく、社会・医療環境が延命を可能にした副産物にすぎない。これを前提に、日本でも「老化を消す」のではなく、「老化にどう備えるか」が美容医療の指針となるべきである。
🧪 “不老ビジネス”の光と闇
― 根拠なき希望と科学の倫理が交錯する場所
「永遠の命」を謳う商品や施術の多くは、科学的裏付けがない。ラマクリシュナンは、そのような「疑似科学」に惑わされる大衆心理を、恐れと欲望の産物と看破する。
たしかに、遺伝子編集や若返り細胞、セノリティクスといった革新技術が注目を集めているが、「それらはまだ“希望的観測”の域を出ていない」。彼はあくまで科学の視座に立ち、「老いは必然ではあるが、社会のあり方次第で“より良く迎える”ことは可能だ」と語る。

✒️ 編集長ポイント
― 科学の先にある“より良き老い”の未来へ
ラマクリシュナンの示した最大の示唆は、「老化=敗北」ではないという科学的視点である。死を恐れるあまり、“不老神話”に飛びつく現代社会。その裏で、科学の名を借りた商業主義が跋扈している現実がある。
美容医療やアンチエイジング産業が進化を遂げる中でも、「長生きできるから幸せ」ではなく、「どう老いるか」「どう生きるか」が問われるべき時代に突入している。
“老化=悪”という前提からの脱却を
ラマクリシュナンが提起した本質的な問い――「老いるとはどういうことか」「それは本当に避けるべきことなのか」。この視座こそ、日本の美容医療に欠けていた部分である。
不老神話に惑わされることなく、「より良く老いる」ことを支援する医療が、これからの美容・健康分野の中心軸になっていく。寿命を延ばす技術以上に、老いを受け入れ、尊厳ある生き方を支える知の探求が必要だ。

✅ まとめ
1.死は遺伝子に組み込まれた“運命”ではない
2.老化は摩耗ではなく、資源の戦略的配分による進化の帰結
3.永遠の命は、進化の視点からは意味を持たない
4.「不老ビジネス」は科学よりも商業主義が主導
5.“長く生きる”ではなく“よりよく老いる”視点が鍵
6.日本の美容医療は、“老いとの共生”を主軸にすべき局面に入った